昭和52年03月09日 朝の御理解



 御理解 第59節
 「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」
 習うておるんだけれども、本当に習うた事になっておるかどうか。ここがまぁ私共、信者として、大事なとこだと思うんです。どこをどう習うたか、そしてどうそれが自分のものになったか、どう血肉になって、それがおかげに繋がっておるかと。何十年、例えばなら、お日参りをしておりますと言うても、どこをどう習うて、どうそれを自分が身に付けたかと。成る程おかげは受けますですね。
 分かっとろうが、分かるまいが、お願いをしておかげを受けますけれども、なら信心の稽古とこう言われる、その教えて頂くという事を、どのように教えて頂いて、どのように私がそれを身に付けたかと。そこで始めてそれが、もう信心はこれに極まった。信心はもうここを頂いて行く意外にはないんだと、と言うまぁそれぞれの、一つ決め手のようなものを自分で、教えてもらい、同時にそれを自分で体得して行く。
 そしてそれで、自分も助かり、人も助かると言う様なおかげを頂いて始めて、教えた師匠も喜ぶのであり、いわゆる「神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ」と言う様な、おかげになって来るんです。その「神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ」といったようなおかげ、そういう三者一つになって喜び合えれるという程しのおかげを、私はお徳だと、お徳の世界だと思う。
 はぁおかげ頂いて100万儲かりました、と言うて、果たして神様が喜びなさるだろうか。はぁおかげで健康になったと言うだけで、喜んでおっても、神様が喜びなさるだろうか。なかなか疑問である。神様の願いをいうのはまだもっと他にあるのかも分からん。三者が一体神も喜び、金光大神も喜び氏子もの喜び、と言う様な喜びを分らせて頂く程しの信心を言わば、教えて頂いて。
 それを、繰り返し体験の上に頂いて。そして身にも家にもおかげを頂き現して、それを本当に、私は金光様のおかげでこれだけ、言うなら出世を致しました。これだけ、家も繁盛してまいりました。と人にも伝えられるようになった時。神も喜び、金光大神も喜んでくださる、勿論氏子も喜びという事になりましょう。
 先日、今この先生方が、毎日交代で正奉仕を当番させてもらう人が、その日の教会の色んな事を、一切出来た事、御理解の焦点、または自分の書簡といった様なものを、毎日、日誌に記しておるんです。この前の度の、栄四郎が奉仕をさせて頂いた時の、栄四郎の所感の中にこんな事が書いてあった。打ち込む打ち込むと言うても、只いきなり打ち込んではだめだと。きちっとそこに焦点があるのだと、打ち込む所があるのだ。と。
 例えば、そりゃ剣道なら、剣道に例をとつならばね、お面とかね、お小手とか、胴とか、お突きと言うように、ちゃんとその打ち込んで行くところがある。決まっておるそこでなかなければ、打ち込んでも点は取れない、と書いとります。確かにそうです。只無茶苦茶に参りましたから、拝みましたから、と言うて、点を取るという事は、私は力、お徳と思います。
 一つの100点なら100点と言うものが貯まった時に一つのお徳になるならば、それを一点一点頂きとめて、100点になった時に、あぁそれがご神徳かと言うような一つの形にも現れて来る、自分の心にも、安心が生まれて来る、喜びが開けて来る訳であります。只、いきなりに、なら打ち込んだ所でだめだと。只、拝みました、参りましただけではいけない。そこでなら、あのここを打ち込め、ここが絶対だ、とこれなら間違いないと言う所へ向って、やはり打ち込んでいかなきゃならない。
 それなら、習うたからそこに打ち込んだからというて、一辺に必ずならお胴ならお胴。小手なら小手で決まるわけではないでしょう。稽古に稽古を積んで初めて、言うなら100発100中と言う様にです、お胴なら御胴、小手なら小手、きちっとこう決まっていく。技ありという事になるのです。お互いそういうような、打ち込み方が出来ておるだろうか。なら教えて頂いておるのは教えて頂いておるが、果たして自分のはあまりにも漠然としすぎておるのではないか。
 自分の信心の決め手と言うものが、果たしてどこにあるだろうか。決め手があるだろうか。考えて見るとない。ただ漠然と、金光様のご信心を頂いておると言うだけでは、なるほど、熱心にお取次ぎを頂いて、おかげを頂くから、皆も参って来るわけなんですけれども、そのおかげではです、なら神も喜びと言う、金光大神も喜び、と言う様なおかげにならないのである。
 昨日西岡先生が、その先日記述係りで書き上げられたと言う、ほんの前青年会がここで、入殿形式をとって、一夜信心実習会をされました。その時まぁ合楽理念について、話してくれと言う事で、しかも時間は45分しかないと言う。とても1時間2時間で合楽理念が語られるものじゃない。と思うけれどもまぁなら4・5分間にまぁ出来るだけ、しかも若い方にも分かる様にならお話をさせて頂こうと言うて、きっちり45分間お話をさせて頂いて、それをテープにとっておりましたのを、聞けば聞く程まぁ素晴らしい。
 なるほど合楽理念、もう知っておるようで知っておらん。分かっておるようで、なら説明が出来なかった。という感じがするから、どうでもこれを、活字にして、皆に配ってもらえんだろうかと言う信者の2、3の人からの要望があったから、まぁ書き上げたと言われるのです。いかに合楽理念が、言うならば絶対の道だと。これを稽古して行くということは、しかもその、合楽理念の中には楽しゅう、有り難く、本気で信心を願い求めて、それを身につけて、行ずる気なったら、誰でも行じられる。
 難しい事、火の行水の行と言った様な事が全然ない。言うならば、俗の言わば人間が、なるほどさせて頂く宗教だと。言うものを感じさせて頂きながら、愈々合楽理念をマスターして行く楽しみ。だから絶対だと言われ、間違いないと言われるな合楽理念に置いてもです、ね、それを一辺読んでから分かったから、人にお話が出来るようになっただけでは、おかげにならん。それがやはり自分の物にするためには、それこそ、稽古した上にも稽古させてもろうて、いわいる打ち込み所がここに決まったのだから。
 自分の考え方を変えることは、もうここに間違えない、ここに切り替えなければならない、ここをこう、考えなければならない。これが本当だと言う事が説いてあるのだから。それをいよいよ、自分のものに、いや血肉にして行く事のためにはやはり繰り返し繰り返し、これこそ言うならば、限りなく、まぁ未完成のままに永遠と言う事でしょうけれども、永遠に繋がる、言うならば無尽蔵。
 限りないおかげに繋がるという事にもなりましょう。と言うほどしのことですからね、稽古をして、自分のものにしていかなければ出来ん。言うならば合楽では私はあげん思うがの、というようなもんじゃなくて、ここを焦点に打ち込んで行けば、はっきりそこに示してあるのです。だからそこを体得。しかもその、示してある事を行ずるという事は、難しい事じゃないです。
 本当に自分が助かりたいならば、本当に家の繁盛を願うならば、本当に日勝り、月勝りだけではなくて、代勝りのおかげを頂きたいと願うならば、この信心に、この言うならば合楽理念のマスターと実証にですね、打ち込んで悔いのないほどしのものですから、やはりそれを自分の物にして行く。そして、自分のものになっただけはおかげである。自分のものである。
 自分のものになっただけは、人に確信を持って伝えていく事が出来るのである。そういう信心を、自分の信心の、基本から、またはその実証の中からです、体得させてもらう。そういう事を師匠は教えてくれてる。のおかげで、私の家の繁盛があり、このまま代勝りのおかげが頂けるに違いがないと確信を持っていけれる信心を頂いて初めて、神も喜び、氏子も、金光大神も喜びという事になり。
 ひいては私共銘々も喜びであります。ただおかげを受けたという、その事だけが、なら神も、氏子は喜ぶかもしれんけどね、おかげを受けた者は、病気が治ったっち言うて有り難いですけども。願うた事が叶うた言うて有り難いでしょけれども、その事が神の喜びではないという事であります。(一時の間がある)おかげを落としては、神は喜ばんと言う所がありますですね。
 昨日の御理解から、こう頂きますと、おかげ落としになるような事は、これは神様のお気付けであり、より本当な事を教えてくださろうとする。もしおかげを落とさせんでそのまま間違ったままおかげが続いたとすると、間違ったまま信心が言うならば進んで行く事になる。それでは本当のおかげにならんから、神様がおかげを落とさせてなさると言う場合がある。それでそこん所を、神様はね、例えば氏子の願いと言うか、甘い物の好きな者には甘い物を。
 辛い物が好きな者には辛い物をね、それぞれの例えばなら願いに、この身に応じて神様はおかげをやろうごとして、たまらんと言う神様なんです、この神様は。金光様の信心すりゃ甘い物食べちゃならん。辛い物はでけんぞ、と仰るような神様じゃ絶対ないのです。もう神様が腹の底からみす、見通しですから。たとえ好きなものでもいりません、と言うとってもです、神様がね、それこそ神様がちゃんと与えて下さるです。信心を進めて行きよると。ところがここに人間の言うならば弱さと言いますか。
 昨日、2、3日前、末永先生がこの日誌に書いておる中に、先日から、今度南米に参ります前に、丁度おばあさんの霊祭もございましたから、帰らせてもらった。もうこれが最後の、まぁ別れかもしれません。船が出ると、段々島影が薄う成っていくのを見てから、まぁ考えよにふけっておった模様が書いてあります。実感なるほどそうだと。けれども教会を離れると、どうしてか神様が遠のきなさると言う事を書いておる。言うならば信心のその情感と言うものが段々薄らいで来ると言う。
 いかに自分の心を神様に、こう向けつづけなければならないか、と言うのですけれども。さぁそこが人間の弱さ。自分の家も教会ですから、神様はそこにござるのですけれども、それが、自分のやはり家ですから、やれやれも出るだろうし、あまえもでるだろうし。そこには、言わば合楽で厳しいまでに、心の中に心行が出来ておっても、その心行すらがやはりゆるやかになって来ると、そすと神様が、もうひしひしと感じておった神様が、神様の方が遠ざかりなさるのじゃなかろうけれども。
 こちらの方が遠ざかっておる事に気付くと言う意味の事を書いております。信心ってそんなに微妙なんです。人間のそれが弱さ。その人間の弱さを、私共はまず自分で知って、精進しなきゃならない。そこが精進なんだ。甘い物を好きな者には甘い物を、辛い物を好きな者には辛い物を与えたいのが神の心。ところがね、信心が出来た。おかげを頂いた。お金でも同じですよ、お金の嫌いな者ちゃおりますまいけれども、まぁ一心にお縋りをしておかげで借金払いも出来た。
 おかげで少しは預金も出来るようになった、途端にならば使うてならない所まで使うような事になるからおかげ落しになるのです。甘い物、言うなら辛い物。飲みすぎて酔狂が出るようになるからおかげ落しになるのです。甘い物、適当にごちそうさんと言うときゃよかけれども、もう一つと手が出る所に胃をなでたりさすったりせんならんようになって来るのです。丁度この辺の所がね、信心の修行と言うなら修行じゃないかと思うし、またそれをどうぞしっかり、体得しとかなければいけないと言う事。
 おかげを受けた以上はです、それを落すような事は致しません。
 それは昨日私に、昨夜休んでおりましたら、あのお気付というのはね、あれは憎いから、罰かぶらせるとかね、まぁ言うならば憎いからたたいたというのじゃないって。それは『神の心配ぞ』と頂きました。神が心配なさるのです。折角ねやったおかげをまたあれが湯水のごと使いよる。甘い物が好きじゃけんと思うて、甘いもんやりゃもう、言わば必要以上に食べようをする。辛い物が好きだから、喜ばせよう、楽しませようと思うて与えたら、もう酔狂が出よる。
 そこにならおかげ落しがある。それはどこまでも神の心配だ、という事です。神様が心配のあまりにお気付けをだから神様にご心配をかけてすみませんという事で、またそこからいよいよ、より本当な信心に踏み切って行くと、またおかげを頂いて行く事になるのです。そういう間違いのない、間違ったらお気付が頂けるほどしの信心をさせて、頂かにゃならんほどしの信心を身に付けて行かねばならない。
 合楽理念が絶対だと言われてもです、その絶対という事は分かったから、絶対の世がどんどん開けて行くと言うのではない。それを行ずるという事。しかもその、行ずる事が何故行じなければならないか。しかも行ずるには、こういう楽しい見やすい行じ方があるんだなと。それを行じよった、ら本当に楽しゅうなろうがねと、また愉快になろうがねと、いうような解き方がしてあるのだ。だからそれに取り組まずしては、その味わいすらも分からない。
 それに取り組まなかったら、それこそ、ね、いかに打ち込んでも打ち込んでも胴にもならなきゃ、それこそどうにもならん。小手にもならない、お突きにもならない。一つもそれでは点数を稼ぐという事にはならないという事。折角信心をさせて頂くのであるから、点数の稼げれる信心に打ち込んで、そして稽古した上にも稽古させて頂いて、100発100中なら、ねらったところが打てれるような、一つおかげを頂いて、始めて神も喜び、金光大神も喜び、氏子もの喜びじゃという事なるのだと思うですね。
   どうぞ。
 あのね、その私共が甘い物が好きだからと言うて、甘い物を食べておる時がもう、神様ももうこうして喜んでござる時ですよ。辛い物が好きな時に、はぁうまかっち言うてもうちょいと美味しかと言うて、頂きよる時がもう神様も手たたいて喜びなさりよる時ですよ。だからそういう神様なんです。けれども、ならそれをすぎたらお前の体にさわるから、ね、それを言わば心得を間違えて、それを乱費したりするとまた貧乏せんならんぞという、その心配がお気付になるんです。
 だからもう私共がもう、その好きな物を、いうならば、お金ならお金を頂いて喜ぶ時にその、その時を神様が喜んでくださる。そんな神様。こりゃあまかもん食べよるが、こりゃようと、睨んでどんおらんじゃろうかと、言った様な事は絶対ないです。もうそれを喜んで下さるのです。けどもそれを過ぎたら、こりゃもうあの、甘い物、辛い物もう一切、人間が幸せを感ずる、喜びを感ずるもの一切神の喜びです。ただそれで失敗するような事になっては、神の心配なんです。その神の心配が、お気付と言った様な、形にもなってくる訳ですね。
   どうぞ。